伯爵令嬢シナモン「飛行船の殺人」 第8回/方舟のファイサル
 

伯爵令嬢シナモン「飛行船の殺人」

小説、エッセイ、画塾

cinamon B 飛行船シルフィ― cinamon

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第8回/方舟のファイサル

軽井沢ピアノコンサートの帰りはアルバイトの都合があり夜行バスで帰った。そのとき雫に、「今度の日曜日に、パスタでもいかが?」と誘われ、当日、部屋を訪ねることになった。

小田急線に乗り、新宿で地下鉄丸の内線に乗り替える。四ツ谷駅近くなると、路線は地上に剥き出しになってしまう。地下は東西を走る丸の内線と南北を走るJR中央線が交わり、地上では東西を走る新宿通りと南北を走る外堀通りが交わる場所でもあった。

(あれからずっと雫は、僕と一緒の電車で通うけど、本当は遠回りだ。中央線と京王線本線でいったほうが速いのに……)

ダークグレイの古びたプラットホーム。雫は改札口のところで待っていた。立体交差点付近にある四ツ谷駅から、南西をみたところに十階建てマンションが望める。雫はそこで一人暮らしをしていた。



部屋は1DK。中に入ると新築特有の匂いがした。学生が一人で住むには贅沢すぎるのだが見事なくらいに何もない。 バルコニーのサッシにパールホワイトのカーテン。八畳のダイニングキッチンは、フローリングで、クッションが二つ、脚の短いテーブルが一つある。

丸の内線というのは半端な出来具合の地下鉄で、ところどころ地上を走る。バルコニーから、丸の内線を望むことができる。恋太郎は都会というものを眺望し楽しんだ。

「すごい部屋だね」

「私って私生児なの。お父さんって呼んでいいのかどうか判らないけれど、遺伝子の半分をくれた男性は地方財閥の会長をしていて母は愛人。私はお金にだけは不自由することがなかったけれど、その分『その人』に抱っこされたことはなかった。上京してからは会ってないかな」

雫は淡々と身の上を語り出した。

「悲しそうにみえないけれど、寂しくなかったの?」

「うん、お母さんが愛してくれたから……」

雫は冷蔵庫から、イタリアワインを取り出して、グラスに注いだ。ワインなど口にしたら、「きざだ」と鼻で笑われる時代だ。学生たちはビールか日本酒あるいは安物の焼酎を飲む。洋酒は全般に関税で値段が吊り上げられていた。

トスカーナ産の赤ワインで雫が一口つけた途端、がたがたと震え出した。

「どうした?」

「うん、何でもない。ちょっとシャワーを浴びていいかしら。身体を温めると治るの」

「そう」

曇りガラスの向こう側にピンボケした若い娘の裸がみえる。心臓の鼓動が高まった。

(雫は細すぎるな。絵のモデルには向かない)

僕は、大きな冷蔵庫を勝手に開けて、野菜を取出し手慣れた手つきできざみ、オリーブ油を敷いたフライパンでゆでたパスタとともに炒め出す。

皿にパスタを盛ろうとしたとき、雫がバスタオル姿で浴室からちょっと顔を出した。

「あ、涼介さん、お昼に誘ったのは私なのに作らせちゃってごめんなさい」

「料理作るの好きなんだ。気にしなくてもいいよ」

「どういうわけだか、ここのお部屋って脱衣場がないの。ちょっと後ろを向いててもらっていい?」

「気が利かなくてごめん」

僕はガスレンジの火を止め後ろを向いた。雫が着替えている様子はない。否、近づいて背後にきている。バスタオルが落ちた。二つの乳房の温もりをシャツ越しの背中に感じ、両腕が僕を柔らかく抱きしめまだ濡れた長い髪が首筋に触れる。

「一緒に暮らして欲しいの、お願い」

腕は湯気がたち吐息を耳に感じる。 たぶん僕は目を白黒させていただろう。手だてがなかった。
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