伯爵令嬢シナモン「飛行船の殺人」 03 魔女のいた化学室/電脳仮想都市(コイマチ)より
 

伯爵令嬢シナモン「飛行船の殺人」

小説、エッセイ、画塾

cinamon B 飛行船シルフィ― cinamon

03 魔女のいた化学室/電脳仮想都市(コイマチ)より

 魔女に出会った人は幸いである。なぜなら、あの美しい「塩」の結晶を目撃することができたのだから。「塩」は、オレンジのような香りを放ち、僕たちを酔わせた。高校一年のときだった。どこの学校にもあるように、僕が在籍した高校にも化学室があった。フラスコがあり、ビーカーがあり、試験管やアルコールランプを置いたテーブル、そして試薬を収めた棚が置かれている。違いといえば、ただ一つだけあった。その化学室には魔女の血を引く教師がいた。名前は西之麻胡。祖父の代に、戦前に台湾からやってきてそのまま日本に帰化した。先祖には麻胡という女仙がいて、生家の男女は何代かおきに襲名するのだそうだ。
 麻胡……。なんて神秘的な響きなのだろう。「麻」の下に秘術を意味する「鬼」をつければ「魔」となり、「胡」は西をさすから、「西からきた魔女」だ。麻胡のローマ字表記〝Maco〟は〝Mago〟とも書け、魔法を表す〝Magic〟という英語にさえ似ているのは偶然だろうか。実際、化学というのは魔法使いや魔女たちによって培われてきたものだ。中国での火薬。ドイツ・マイセン窯での磁器。化学を古風にいえば「仙丹術」とか〝錬金術〟となる。
 長く艶やかな黒髪、華奢な体躯、細くしなやかな四肢。バイオリニストが奏でるかのように、なめらかな動きをした指が、黒板に、異国の文字を、規則的に書いていく。福音を唱えるかのような法則的な声は、ライン川の魔女ローレライが、転覆させる瞬間のようだった。操舵を忘れた水夫のように、男子生徒は、講義をまともに聴かず、講義の間ずっと、惚けた顔をしていた。
.
 ──化学における「塩」〝Salt〟とは何か。
. 
 酸由来のアニオンと塩基由来のカチオンがイオン結合した化合物。酸と塩基成分の由来によって、無機塩、有機塩とも呼ばれる。 では塩基とは何か。酸と中和反応して「塩」を生成する物質グループのことだ。 女子はノートをとり続け、男子はただ惚けていた。恋太郎は恋太郎なりに考えた……つもりだった。
.
 ──麻胡先生のいう、「塩」と、トマトサラダに振りかける食塩との比較。
.
 酸味の利いたトマト、これに塩を振りかける。美味しく食べられる。美味しく食べられる状態が中和反応で、塩化ナトリュウム〝食塩〟になった状態。化学肥料をやったのが無機塩、堆肥をやったのが有機塩だ。僕が勝手な解釈をしていると、心に直接語りかけてくる存在を感じた。
.
 ──あら、こういう解釈もあるわよ。
.
 麻胡先生の声。いや、目線というべきか。その人は、テーブルの間にある通路をすり抜けて、教壇から恋太郎の後に行き、恋太郎の肩を叩いた。
.
 ──私が酸、あなたが塩基。そしてこれが中和反応。
.
 少年の唇に、その人が唇をそっと重ねた。オレンジのような香り。
突然、麻胡先生がテーブルを叩いて大声をはりあげた。
「こらあっ、男子ども。何を妄想してた?」
 惚けていたのは僕ばかりではなかったようだ。化学室にいた男子生徒全員が、冷水をかぶせられたかのような顔になった。

 ──や、やばい。心を読まれた。麻胡先生は魔女だった!
.
 翌年の春、麻胡先生は
修士マスターの資格をとるため大学に戻ることになった。 壮行会で体育館に集められた生徒、特に男子生徒の大半が、壇上にいた麻胡先生をみつめて一斉に、「嘘だ!」という声をあげた。
 僕が上京してから、しばらくしのことだ。 彼女にプレゼントを贈るなら、同じ年頃の店員に選ばせることだ。そんなふうに会社の先輩がいうので、想いを寄せる娘に香水を贈ろうと、三越百貨店にやってきた僕は、化粧品売り場を散策していて懐かしい匂いを感じた。 甘酸っぱい匂い。店員は麻胡先生に似てなくもない。
.
 ──香水は、花のエッセンスでつくります。オレンジではありません。
.
 笑顔まであの人に似ている。香水の名前を忘れてしまったのだけれども、香りだけは、いまも、記憶している。
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