伯爵令嬢シナモン「飛行船の殺人」 第5回/伯爵令嬢シナモン 『飛行船の殺人』第1章4
 

伯爵令嬢シナモン「飛行船の殺人」

小説、エッセイ、画塾

cinamon B 飛行船シルフィ― cinamon

第5回/伯爵令嬢シナモン 『飛行船の殺人』第1章4

ミュシャの回廊

挿絵(By みてみん)

 晴れていれば陽は頭上近くにいたであろう。時計の針が午前十一時を回った。シルフィーを繋ぎ止めていたロープが斧で断ち切られた瞬間、観衆がどよめいた。銀色の巨体は静かに天空に舞い上がっていく。黄浦江に群れる艦船も、バンドの街並みも次第に小さくなっていく。やがて時計は正午を回る。
 船体胴部に方形のゴンドラがある。中央が乗客キャビン、両脇にあるのがプロムナードデッキだ。これらは、ミュシャの回廊という通路で連結されていた。周回する赤い絨毯が敷かれていた通路で、壁や天井には、調和のある内装が施されていた。
 十九世紀末から二十世紀初頭に流行したアールヌーボー様式。美術界のみならず、建築や工芸といった分野にまで広がっている大芸術運動によるものだ。
 壁になっているのは一連のパネルだ。作品を手がけた画家は、チェコの画家アルフォンソ・ミュシャ。ポスターや装飾パネルの分野で活躍し、グラフィックアート革命をもたらした。アジア風の意匠・様式を取り入れつつ、水彩画風の色調に、赤みを帯びたみずみずしい女性達を描いた。
 アールヌーボー様式の代表的な画家には、他にクリムトがいる。金・赤・緑・紫といた極彩色を多用しつつ、死の影を漂わせていた画風。ミュシャの画風とは対照的だ。
 絵画は、白い薄絹をまとったギリシャの女神がモチーフになっていた。黄金の髪をした貴婦人は、心奪われた様子だ。
 ミュシャの回廊を右に折れて、プロムナードデッキに入ったところが食堂だ。奥には展望室がある。窓の一部がステンドグラスになっていて、差し込んだ光は幻想的 になっていた。展望室はベージュ色の壁や天井を基調とし、随所に黒と金のS字意匠を加えて、めりはりをつけていた。
 シナモンが窓下をのぞくと長江がみえた。大きな中洲が上海島だ。東に向かったところにあるのが河口デルタだ。抜けてしまえば東シナ海になる。あたりは大河と海とがせめぎ合い、水彩絵の具の褐色と藍色を滲ませたようだった。
「なんて美しいのでしょう!」
 黄金の髪を後ろに束ねた貴婦人が感嘆していた。すると、食堂側から声がしてきた。
「計画を変更せねば――」
「どうしてなの?」
「しっ、展望室に誰かいる」
 若い男と女の声だ。少し間をおいてから男が低くささやき、二人の靴音が足早に遠ざかっていった。
(訊かれたくない内容? 楽しい飛行船の旅で? 何を隠すというのだろう……)
 不審に思ったシナモンが、展望室の出入り口から食堂をのぞき込む。誰もいない。
 代わりに、ミュシャの通路から老紳士がやってきた。乗船のときに、「将軍様」一行から助けてくれた人物だった。若い貴婦人が訊ねた。
「先ほどはどうもありがとうございました。ところでいまここで、男の人と女の人がお話ししていませんでしたか?」
「いえ、みかけませんでしたよ」
 老紳士は頭に霜を戴いていた。すらりと手足が伸びた体躯をしており往年の名優のようだ。その人が孫娘に語りかけるようにシナモンを誘った。
「私は、船内を散策しています。よろしければ、ご一緒いたしませんか?」
「ええ、喜んで。先ほどは貴男様がお急ぎのご様子で、失礼ながらお名前をおうかがいできませんでした。どうかお教え戴きたいのですが……」
 シナモンが欧風のお辞儀であるカーテシーをしてフルネームをいったので、銀色の口髭をした老紳士も名乗った。
「私はエドガー・ホワイト。ロンドン大学で考古学を教えています」
「エドガー博士? あの有名な『ウルのジグラッド』の?」
「おおっ、私の著書をご存じでしたか?」
 物静かなシナモンとエドガー博士の語調が高揚した。
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