伯爵令嬢シナモン「飛行船の殺人」 第2回/伯爵令嬢シナモン 『飛行船の殺人』第1章1
 

伯爵令嬢シナモン「飛行船の殺人」

小説、エッセイ、画塾

cinamon B 飛行船シルフィ― cinamon

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第2回/伯爵令嬢シナモン 『飛行船の殺人』第1章1

写真ロレンス 
T.E.ロレンス
中野好夫『アラビアのロレンス』岩波新書1940 より
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第一章 ミュシャの回廊

『かもめ岬の姫君』へ

 十八歳の誕生日おめでとう。殷墟を見学にいったそうだね。どうでしたか? たぶん素晴らしい遺跡だったと思います。このあいだの手紙では、父君から誕生祝いに飛行船の乗船チケットを贈られたのだとか。乗り物好きの私としては羨ましい限りです。どうか楽しい旅を。私は飛行機を操縦しました。風に乗るのは素敵だ。君にも乗ってもらいたいな。
                                      T・E・ロレンス
                                           
 四月一日午前七時。リムージンが、ガレージから通りに出て門前に停った。ロース・ロイス社製シルバーゴーストだ。先端に飾りのついたボンネットは切妻屋根のようで、スペアタイヤが側壁に立て掛けられている。
「シナモン、用意はできた?」
「はいっ、叔母様」
 若い貴婦人は、ベランダの藤椅子にもたれて手紙を読んでいた。クラクションが鳴らされたので、ハンドバックに慌てて手紙をしまい込む。外に飛び出し荷物を車に積み込もうとすると、気の優しい中国娘のメイドが手伝ってくれた。
 上海の道路規格はでたらめだ。時代によって、列強による租界の範囲は変遷してきた。このため街路は急に幅が広くなったり狭くなったりするのだ。そこを縫うようにして路面電車が走り抜けていく。路面電車を追い越し、リムージンがメインストリートに向かっていく。
 乗っているのは、シナモンと見送りの人々である。運転しているのは叔母君、見送りの人々は近所の有閑夫人たちだ。その人は名残惜しそうに窓越しに、山吹色の屋根をした街並みを眺めていた。
 現在の和平飯店は、当時、サスーンハウスと呼ばれていた。アヘン交易で巨富を得たサスーンによって建てられたものだ。黄浦江沿いにある重厚な石造建造物が軒を連ねる通りで、近くには上海海関もある。ネオバロック様式、ネオルネッサンス様式、アン女王復古様式といった建物群は、さながらロンドンを彷彿とさせた。金融街であるバンドは、そういう街並みだ。
 人や車で麻痺した街路を、警官たちが、てきぱきと誘導していた。春は青の制服だ。中国人のほかに、インド人、ベトナム人、ロシア人、ドイツ人といった外国人もいた。インド人はイギリス人が、ベトナム人はフランス人が植民地から呼び寄せ雇った。ロシア人は革命で亡命してきた没落貴族。ドイツ人は青島の租借地を日本に奪われ流れてきた人々だ。
 上海の空気は淡いセピア色だ。市街地の南を流れる黄浦江は、それをもっと濃くした土色をしていた。黄浦江を誰も大河だとはいわない。けれども、大型船が何十隻も停泊できるほどの川幅と水深を有していた。
 アメリカやイギリス、それに日本といった列強は、租界にいつ襲いかかってくるか判らない中国政府軍や反乱軍に備えて、黄浦江の真ん中に砲艦を停泊させていた。アメリカのグアム、イギリスのペテレル、日本の堅田。いずれも全長五十メートル、排水量三百トン級で、高角砲2門と機銃を六から八門を装備している。
 亀のように、ずんぐりした鋼鉄の胴体は、甲板にカーキ色の天蓋で覆っていたりして、一見、渡河連絡船のようにもみえるのだが、河川を巡視し植民地という柵の中で「羊」たちを威嚇する番犬だ。「砲艦外交」という言葉はこの小型軍艦に由来している。もっとも長江流域での砲艦の役割は当初の目的からいささか変化していた。
 アメリカ・イギリスからすれば、中国に睨みを利かすというよりは、昨今、急速に勢力を拡大している新興国日本の動向を探る情報収集基地となっていた。反対に日本からすれば、両国の砲艦を監視する通信拠点となっていたわけだ。
 バンドには、一般見物人はもとより、ラジオや新聞、雑誌といった各国の報道機関関係者も多数押し寄せた。雑誌『東京倶楽部』に所属する記者の佐藤とカメラマンの中居もそうだった。佐藤は、横にいるスーツ姿の日本人に取材した。ビールっ腹を撫でている。
 佐藤が訊ねた。
「社長さん、巨大飛行船シルフィーをご覧になったご感想は?」
「あんなデッカイもんが、空に浮かぶのか?」
 お大尽が、対岸の飛行船から、黄浦江の中ほどに投錨している軍艦三隻に目を移した。米・英・日の三か国が派遣した砲艦だ。飛行船の全長は三隻の四倍近い。遠くからユニオンジャックの旗を掲げた大型船舶が近づいてくる。寄港してきたのはヨーク級重巡洋艦で、全長百七十五メートルなのだけれども、それすらシルフィーに及ばない。
 中居がカメラを向けた。
「社長、一枚撮らせてください」
 ビール腹のお大尽は傍らの高級娼婦をぐいっとたぐり寄せた。高級娼婦は、グラマーな亡命ロシア人だ。
 二人は、波止場から小型汽船に乗り込み対岸に渡った。欄干にもたれて中居がぼやいた。
「いいなあ、あのオヤジ。美味し過ぎますよね、先輩──」
 中居をなだめるかのように佐藤がいった。
「あのオヤジにすりゃ、俺たちのほうがよっぽど美味しく思うだろうよ。取材とはいえ、俺達は飛行船シルフィーに乗れる。考えてもみろ。搭乗券は四百ポンド。イギリス中間階層の年収以上だぞ」
「そっ、そうっすよね」
 答えてはみたものの、中居は気が晴れぬ様子だ。
 渡し船にはリムージンが載っていた。デッキには、レディー・シナモンと見送りの一行もいた。佐藤たち二人は、黄金の髪を後ろに束ねた人に釘付けとなった。
「なんて綺麗なんだ!」
「同感です。飛行船に乗るのかな?」

 ──巨大飛行船、上海に舞う。

 悪くない見出しだ。飛行船のタラップを昇る麗人の写真は、絵になる、物語になる。翌週には、佐藤と中居が取材した特集記事を載せた雑誌『東京倶楽部』が、日本全国の書店の店頭を飾るのだ。

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