伯爵令嬢シナモン「飛行船の殺人」 第1回/伯爵令嬢シナモン『飛行船の殺人』序章1
 

伯爵令嬢シナモン「飛行船の殺人」

小説、エッセイ、画塾

cinamon B 飛行船シルフィ― cinamon

第1回/伯爵令嬢シナモン『飛行船の殺人』序章1

Lady Cinnamon Part ‐Ⅲ
,Age 18, In 1929

伯爵令嬢シナモン
『飛行船の殺人』

またお会いできてとても嬉しいです 
 シナモンのカーテシー


 二つの大戦の狭間には、短くて危ういながらも平和な時代があった。世相を反映するかのように、「東洋のパリ」と称されたモダン都市上海には、世にも不思議な三つの空間が存在した。
 一つめは上海県城だ。上海市南部にあり、中国の自治政府が置かれていた清朝の香りのする旧市街。二つめと三つめは欧風の建造物が集中する外国人居留地だ。外国人居留地のことを租界といい、中央部のフランス租界と、北部の共同租界とに分かれていた。
 共同租界はイギリスとアメリカが管轄していた。中心はバンドといい、黄浦江左岸の波止場と周辺にあった。バンドの外縁には、ベランダハウスという様式の邸宅が、軒を連ねていた。山吹色の屋根が張出しベランダを覆うことで、モンスーン期の長雨と、盛夏の陽光から建物を保護する構造だ。高級官僚やビジネスマンが居住していた。
 上海県城と二つの租界は、各自に警察や軍隊まで保有していた。何というアンバランスな町なのだろう。まるで一つの町に、三つの国家があるようなものである。

 一九二九年三月二十八日午後四時――
 勲爵士の称号をもつイギリス人実業家一家が住むベランダハウスの一つである。垣根には、薔薇やハーブの草花が植えられ、芝生の上には、白くて大きな円卓と五つの椅子が置かれていた。中国娘のメイドが、銀製のケーキケースとポットを運び、ウェッジウッドのティーカップを並べた頃、着飾った中高年の婦人たちが席に着きだした。
 夫は高級官僚や大会社役員で家事はメイドがする。子供たちは成人し独立している。日課といえば、気の合う仲間たちと催すティーパーティーしかない。典型的な有閑夫人たちである。当時の中高年齢者はビクトリア朝時代の気質で、「男女平等」をうたう若い世代とは反りが合わない。ただ、その娘だけは例外だった。
「初めまして。皆様にお会いできて光栄です。私は、ザ・ライト・オノラブル・レディー・シナモン・セシル・オブ・レオノイス。宜しければ、シナモンとお呼びください」
 カーテシーは、スカート両端をつまむお辞儀だ。シナモンと名乗る娘は十八歳だという。かの国での成人になったばかり。誰もが目にしたこともないような優雅な挨拶をする。有閑夫人たちは好感を持った。
「ザ・ライト・オノラブル……貴族ね。レディー・シナモン……ほお、伯爵令嬢。セシル・オブ・レオノイス……レオノイス領主セシル家の出自。セシル家は海軍大臣を輩出したことがある。お姫様だわ。何て上品なの!」
 当時の庶民たちは、例え謙遜でも貴族が身分を偽ることを嫌った。フルネームと称号を名乗るのがマナーなのだ。
 ベランダハウスの奥方は誇らしげにいった。
「姪は、論文執筆のため、アジアの遺跡巡りをしています」
「論文? 大学の卒業論文ね?」
「いいえ、論文は学界に発表するもの。卒業済みです」
「何回も飛び級なさったのね、レディー・シナモン?」
 イギリス上流階級では、中国茶が珍重されていた。メイドが、ポットから注いだのは、フレーバーティーだ。福建省祁門の薫製茶で香ばしくも爽やかな味わい。キーマンともキームンともいう。
「美味しい!」
 金縁のティーカップは、琥珀色の液体で満たされていた。湯気が立ち、香ばしさが漂っていた。
 若い貴婦人が、屈託のない笑顔をみせた。水色の古風なドレス姿で、黄金の長い髪を後に結っていた。栗色の瞳は優しげで気取ったところがない。けれども良家の令嬢らしく、有閑夫人たちがゴシップ話をしだすと、笑みを浮かべたまま口をつぐんでしまう。
(七年ぶりの再会だけれど、時の経つのは早いものね。子羊を追いかけて野山をかけるオテンバさんだった。今では立派な貴婦人になっている)
 叔母君は感慨深げな顔をした。シナモンは、他人のプライバシーについて、あれやこれや口にしない。代わりに、有閑夫人たちを楽しませる特技を持っていた。
「皆様のカップをおみせください。占ってさしあげたいのです」
「紅茶占いね? 素敵な余興だわ」
 シナモンは、有閑夫人の一人のカップを神妙な顔をしてのぞき込んだ。
「紅茶の葉が馬の形をしています。次の日曜日あたりにご主人から、『競馬にいこう』と誘われていらっしゃいませんか?」
「やっだあ、大当たり!」
 叔母君が口を挟んだ。
「姪の占いは、子供の頃から不思議なくらいによく当たりましたのよ。おほほほほ……」
 シナモンは、三人の有閑夫人と叔母君のカップを観た。残るはその人自身のカップだ。全員が注目した。底には紅茶の葉が一枚だけ残っており、まるで葉巻煙草のような形になっていた。
「これはどういう意味?」
 有閑夫人たちは興味津々だ。
 黄金の髪の貴婦人は、神妙な顔で急に立ち上がり、腰をかがめ、片方の耳に手をあてがってから、残りの手の人差し指を唇に寄せ目を閉じた。
「お静かに。シルフィーに相談しています」
「まあ、なんてキュートなジョークなの!」
 シルフィーは風の妖精だ。有閑夫人たちはシナモンにすっかり魅了された。
 その人は、まだ目を閉じている。
「くる。くる。すぐ後ろ。その仔がシルフィー」
 かすかなプロペラ音がする。有閑夫人たちが、若い貴婦人の背後を見上げた。薄暮の空。銀色の巨大飛行船が浮かんでいた。
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